セヴァサダン・スクール物語


セヴァサダン・ボーディングスクールは、NGOマヤ・ネットワーク・ネパールの代表ウサ・ギリの意思により1993年にその活動が始まり、1995年に正式に学校として国より認可されました。その創設までには様々な葛藤がありました。

 ウサ・ギリは1970年7月にカトマンズのバネーショル地区の大地主の孫として生をうけました。家には40人以上のお手伝いさんたちが常時いて、ウサ・ギリの祖父はバネーショル地区の管理を王様から託されていました。
 
 祖父はウサ・ギリを常に脇に置いてかわいがりました。

 バネーショルの住人たちが毎日のように祖父へ持ってくる問題や相談と祖父のその裁量を子供ながらよく見ていました。裏の政治的な駆け引き人間的な柵や腹黒さもよく知っていました。10歳からは40人あまりのお手伝いさんを含む大家族の一切の買い物やそのお金の管理をまかされていました。

 さて、18歳の時にそんな暮らしに転機が訪れました。日本の京都大学へ留学をしたのです。そこでネパールの真実の姿を初めて観せられることになりました。

 大学で友人達にいつも質問されるのは、ネパール(最貧国)で「この物品はあるかあの物品はあるか」という質問でした。もともと地区一番の裕福な家庭の出ですから当然にすべてある訳ですが、そう答えるたびに「ウッソー!ウッソー!」と日本の若者の驚きのリアクションが起こるのでした。

 しかし、ネパールで嘘という受け答えは最も悪いものです。しいて言えばあなたの“言”は全く信用ならないぐらいの意味です。その友人達の受け答えに大変なショックを受けると共に、なぜに友人達はネパールについてそのように(貧乏)見做すのか、大学の図書館で書物やビデオを調べ始めました。

そして、その世界最貧の母国の酷い状態に初めて知り気づくことになったのでした。

 自分の国の貧困、不衛生、識字率の低さ、カースト差別、人身売買、奴隷制などなどありのままの事実に非常なショックを受けると共に、なぜに日本の友人たちがそのように言っていたのか深く理解したのでした。

 それについて毎日のように深く考え続ける日々が続きました。
 
 ある時、大学の図書館でボッーと一人佇んでいる時でした。突然に大きな気づきが向こうからやってくる体験がありました。それは全身が稲妻に打たれたような、ウサ・ギリにとっては神秘な体験でもありました。

 大樹が真ん中にある学校の校庭や子供達が教育によって変わっていくという一つの明白なビジョンを見せられると共に、ネパールの現況は教育によって変えられるという強烈なインスピレーションと巨大なエナジーを頂いたのでした。

 それと共に「やれる!」という“大いなる確信”が19歳の若者の心の内から滾滾と湧いてくるのでした。

 そこからガラリと人が変ったように明確な方向をもって日本の教育システムの勉学に邁進し始めました。日本の数々の幼稚園や小学校へ何度も何度も見学や実習に出かけたり、京都大学では大学院まで進み児童心理学の勉学に寝る暇もないほどに励みました。

 その成果が、日本では初とも言われている外国人で初めての日本の小学校の教員免許の取得という快挙へと繋がっていきました。

 そして、ついに1993年にカトマンズに帰り、トリヴゥバン国際空港から5分の場所にある世界遺産でもある名刹パシュパティ境内に幼稚園を開設することになりました。

 “ポレ”と呼ばれるトイレ掃除を専門にする最下層のカーストの子供たち10人からのスタートでした。当時、ネパールには最下層のカーストのための幼稚園は皆無であり画期的な試みでした。ゆえに12歳の少年の姿もそこにはありました。

 それだけに当時のネパールの常識をはずれた行為として親戚一同のウサ・ギリへの一斉攻撃が始まりました。なんでそんな余計なことをやる必要があるのか?!宗教的に不浄・穢れにあたり非常によくない!という理由でした。

 ウサ・ギリはまったく耳をかしませんでした。

 カースト最下層の子供達は親達がそうであるように、信じられないようなとても汚い言葉をしゃべり、清潔観念やモラルは低く、毎朝、髪や身体を洗ってあげ爪を切り、言葉の使い方から教えなければなりませんでした。

 そんな中では雇った先生たちは次々に辞めていきました。教職員や用務員の雇用回転の速い職場でした。大変な作業であると共に、何よりもカースト差別意識がそれに拍車をかけて邪魔をしたからです。

 それでもウサ・ギリの父と兄(次男)はその価値を深く理解していましたし、幼稚園の設立と運営を資金面から全面的に支援していたのは幸いでした。

 そして、当時は皆無だった日本の優れた教育システムを導入しているということで、低カースト出身者たちが続々と入学し始めて50人の規模になったところで、今あるバティスプタリへ学校を移設して政府から正式な認可も得ることになりました。二年目の1995年のことでした。

 しかし、一つの大きな問題がありました。授業料、教科書、制服、ランチの費用などすべてが無料であったために資金はいつも不足していました。運営は非常に苦しいものだったのです。それで、1996年には、ウサ・ギリは資金を稼ぐために学校の運営を妹のカルポナ・ギリに全面的に委託して、日本へ渡りネパールレストランの経営に乗り出しました。

 その後は、姉が日本で稼ぎ送金をして妹が学校を運営する形が12年間ほど続きました。もともと日本の優れた教育システムを基盤にしていましたので、ほとんどの生徒達の両親は教育を受けていない低いカーストの出身でしたが、子供達はメキメキと実力をつけていき、学校の乱立するバネーショル地区にあって知育、体育ともにNO.1と言われるまでになっていたのでした。今年で創立20年となり政府のABCランク付けの中でもAランクの優秀校として公認されるまでになりました。

SLC(高校卒業認定試験)ではネパールではベスト10に入り、JICAが主催するナマステ体操コンクールではグランプリを獲得し、総合的な教育の能力が試されるミスティーン・ネパールでもグランプリを獲得する子供が現れてくるようになったのです。

(2015年8月)

 

追記:「セヴァサダンスクール」とは日本語訳で「奉仕団体の学校」という随分と御堅い名前なのですが、そこには創設者のこのような“大いなる意思”がムンムンと込められています。


NGO マヤ・ネットワーク・ネパール

Manjyu Shree Mark Ward 9 Buttishputali kathmandu , Nepal

bipulgiri@gmail.com

代表:ウサ・ギリ
事務局長・木村悟郎